環状C6H6システムにおけるp電子分布の対象性と幾何構造との関係

 

1.はじめに
1984
から1998年にかけて,benzenep電子はbenzene環に均等に分布するより,局在化した方が安定であるというShaikらの主張がアメリカ化学会誌を中心で行われている.その要点は,p電子は局在化の性癖(propensity)があるが,s電子系の強い対象性を保つ力によってbenzeneの構造が保たれるというのである(e.g. J. Am. Chem. Soc. 109, 363 (1987)).その根拠は, benzeneの全エネルギー(E)をpエネルギーとsエネルギーとの和,
      E = Ep + Es    式1
に分割して,正6角形構造(D6h)からKekulé型幾何構造(D3h)に構造を変化させると,Epが低下し,Esが上昇するというものである.いろいろのelaborationはあるが,本質は変わってない.この表現は曖昧であるが,どのような意味にとってもこの主張は根本的に間違っていると思われる.有機化学を専門とされる方々に我々の主張が有機化学的に受け入れてもらえるか否かご意見をいただきたい.

 

2.定義
議論する場合,その対象となる単語は共通の概念でなければ,議論はかみ合わない.ここではbenzeneの定義が重要である.我々は実測されるようにbenzeneD6h対称性を有するものとする.それ以外はdistorted benzeneであり,benzeneとははっきり区別されなくてはならない.というのは,幾何構造を変化させることにより無限の対象ができ,議論にならないからである.次にはエネルギーを座標(この場合原子核の座標)で(偏)微分したものでこれはニュートン以来の常識である.幾何構造をD6hD3hとする反応座標はB2u上(一つおきの3結合がDrのびると他の3結合はDrだけ縮む)にとるものとする(これが純粋なdistortion座標で,最近Shaikらもこの座標を採用している.

3.問題点
(1)benzeneのような平面構造のp電子系では結合次数(Prs)がp電子のそれとs電子のそれとの和で表すことができるため,Eを1式のように表現できるが,これでは重要な点を見落としてしまう. Eは,
      E = Ep0 + Es0 + <Vee>s-p + VNN    式2
と表現すべきである.ここで, VNNは原子核の反発エネルギー, <Vee>s-ps電子とp電子との反発エネルギー, Ep0Es0は純粋なp電子あるいはs電子のエネルギーである.こうすることによりはじめてs-p相互作用の重要性が見える.
(2)Shaikらは Es/REp/RRB2u上での核座標)を求めずにp電子の力s骨格の力を議論している.

4.なぜShaikらの主張が間違いであるか
1)Eを1式のように分割した場合,benzeneの構造は最適化されているのでE/R0である.したがって,Ep/R +Es/R =0となり,Shaikらの主張では Es/R > 0Ep/R < 0とならなければならい.我々はいろいろな組み合わせのEpについてで Ep/REs/Rを求めたが,いづれも0となる.
(2)Shaikらは幾何構造を変化させてpエネルギーの変化(DE)を求めたが,pエネルギーと幾何構造との関係を求めたのであり,p電子構造との関係を求めたのではない.幾何構造を変化させると2式からわかるように<Vee>s-pVNNが大きく変化する.その大きさはEp0103倍以上であり,変化の大部分は構造変化による.つまりdistorted benzeneではp電子のエネルギーは低下するが(低下するのはたまたまB2u座標上での話),局在化電子構造を好むとはいえない.しかも,幾何構造を変化させた場合,もはやbenzeneではない.この問題を解決するには,p 電子のエネルギーをp結合次数(Prsp)の関数として求めなければならない(図のCを参照).この問題を解決するため,我々はconstrained Hartree-Fock法を開発し( Int. J. Quantum Chem. 52, 575 (1994)適用したところ,benzenep電子はやはり,D6h型の均等分布のとき最低エネルギーとなることがわかった.(このような報告をJ. Am. Chem. Soc. にするのだがrefereeingの段階で強い感情的反発を受け科学的議論にならない状況である.あきらめて他の雑誌に投稿.)

以上が本研究の背景であるが,混乱の原因はpエネルギーの定義のコンセンサスなしで議論している.また,構造を変化させたときp電子のエネルギーを大きく変える.これをp電子構造の変化によるものと勘違いしていることが挙げられる.ところで, pエネルギーのコンセンサスがない状況で議論はできないので,本研究ではp電子の分布の対称性から議論する.ところで,有機化学者の一部には,Shaikらもそうなのだが,[s結合は強固である]という先入観があるように見受けられる.benzeneの場合6個のp電子を取り除くと平面構造を保てないほど[ぐにゃぐにゃした]状態である.それにp電子を加えていくと,p-MOによって規定された対称の幾何構造となるのである.すなわち,C6H6系の幾何構造はp電子の分布の対称性によって決定されることがわかったので,詳細を紹介し,あらためてbenzeneの幾何構造の成因を考えてみる.

5.結果・議論
まづ, C6H6系の平面性を保ちつつ,6個のp電子を除いた系を6-311G basis setで計算すると,対称はD6hであるが,C-C結合距離は1.723Åとなる(結合の強さはだいたい距離に比例するからこのC-C結合は非常に弱いといえる).3つの負のforce constantがあり,いづれも平面を崩す方向のものである.平面を固定せずに構造最適化すると,cyclohexaneのようにイス形構造となる.



                                p-MOの対称
                                        
次に,p-MO対称性と,その軌道に電子が入ったとき系に加わる力の方向との関係を調べる.benzeneの低位の3つのp-MOを上図に示す.平面構造を保ちC6H66+に2個の電子を加えると,それらはyp1(a2u)の軌道を占める.各炭素原子に力が加わり,その方向を解析するとtype A型の力(下図)となり,そのまま構造最適化するとD6h対称性を有するC6H64+C-C: 1.500Å)となる.このイオンにもC6H66+の場合と同じように3つの負のforce constantが観測され,自力では平面構造を保てない.                     




最後に,構造最適化したC6H64+に2個の電子を加える.はじめ,電子配置は(yp1)2(yp3)2となり,type Bの力が加わり,構造を最適化するとその過程で(yp1)2(yp2)2に変わり,最終的にD2hの対称性を有するC6H62+(C-C: 1.377, 1.535Å)となる(動的な電子分布の対称性が幾何構造の対称性を決める).最後に構造最適化したC6H62+D2h)に2個の電子を加えるとると,D2hD6hに変える力が働き最終的にD6hの対称性を有するC6H6となる.

6.考察
これらの事実をふまえて,benzeneの対称性とp電子の分布を考えてみよう.C6H66+は変形しやすいものであるが,無理に平面を保たせると正6角形(D6h)である.これは,sp2混成の3つの原子価は等価であるので当然である.これに漸次電子を加えると,いづれの場合もp-MOの対称性が系の幾何構造を決める.したがって,もし,p電子に局在化の傾向があれば,benzeneは正6角形とはならないと結論してよいであろう.これに対し,s骨格がD6hであるからp電子が均等に分布するのであるという反論があると思われるが,これは当たらない.構造最適化したC6H62+D2hであり,これに2個の電子を加えるとると,対称を高める力が働き最終的にD6hなるからである.最後に,benzene幾何構造をD3h方向に変化させEpが低下したとしても,benzenep電子は局在化構造を好むといえないこともう一度強調したい.理由は: Epの低下はp電子を取り巻く環境が変化したためであり,電子構造の変化によって与えられたものでない.